最近、『小さな事』を要求されることが増えた。

例えば、こんな感じのものだ。

「エスカレーターは歩かず立ち止まりましょう」
「ペットボトルの蓋は外して捨てましょう」
「電気はこまめに消しましょう」
「商品は手前からとりましょう」

全て大事なのは分かる。
食品ロス、環境問題、エスカレーターの老朽化。
世の中には、無数の団体があり、それぞれ問題視している事がある。
また、世の中には取り組まなければいけない問題が沢山ある。

要求する側の気持ちも分かる。

「大層なことをお願いしている訳ではない。小さな『当たり前』をやりましょう」


例えばだが、日本の人口は1億人程度いる。
仮に1人から1円づつ貰えたら、1億円になる。
1人の小さい負担で、これだけの効果を生む。

要求する側の理屈は理にかなっている。

ただ、この考え方でそれぞれから『小さな当たり前』を要求されると、要求される側は非常に困る。

今までは、1円払えば良かったのだ。
それが、10円、100円と膨れあがっていく。
気づけば、大きな負担を抱えている。

そして、一番の問題はその『小さな当たり前』さえ行わない人がいることである。

「別に一人くらいやらなくても問題ないでしょ」
「こんなのやっても意味ないよ」

確かにそうなのである。

解決したい課題が大きすぎる。
それに比べて、要求が小さすぎる。
見合ってない。

これでは、やってる人だけが損する。
ただ、面倒くさいだけである。

要求する側も「何のために行うのか、解決しないとどうなるか」を必死に説明している。
ただ、人はそれだけでは動かない。

なぜなら、所詮は他人事だから。
何十年先の地球の未来、アフリカの子供、駅のエスカレーター。
そんな事に興味ないのである。
自分の生活さえままならないのに、そんな人様の事を気にしている暇はないのだ。

『小さな当たり前』を積み上げた結果、そこに何ができるのであろうか。

「塵も積もれば山となる」

ただの吹いたらどこかへ飛んでいく、ゴミの山にならなければいいのだが。